IE9ピン留め
2012年 01月 21日
ベルリンその2(2012年1月1日)
1月1日、午前はツアーでベルリン市内観光。午後はフリータイムとシュターツカペレ・ベルリンのニュー・イヤー・コンサート。
どんよりとした曇天の下での市内観光だった。冬のベルリンの冷え込みは大変に厳しいと聞いていたが、この冬は記録的な暖冬ということで、天気の割にはそれほど寒くなかった。
最初に訪れたのは1919年にシャルロッテンブルク・ドイツ歌劇場として設立された後、名称がたびたび変わり、1961年に現在のベルリン・ドイツ・オペラとなった旧西ドイツでは唯一だった歌劇場。建物の外観を眺めただけ。

その近くにはプロイセン王であるフリードリヒ1世が妃ゾフィー・シャルロッテのために建設したシャルロッテンブルク宮殿があった。街には新年を祝って打ち上げられた花火の燃えかすやワイン、ビールの空き瓶などが散乱していて、ここも例外ではなかった。

因みにフリードリヒ大王はフリードリヒ1世の孫がである。62歳のJ.S.バッハがポツダムを訪問した際、フルートの名手であり、作曲もこなした大王がバッハの即興演奏のために与えたテーマが名曲『音楽の捧げもの』の誕生の基となったというのは有名な話だ。
昨晩大興奮したベルリン・フィルハーモニーにも訪れた。このホールはハンス・シャロウンが設計し、1963年に竣工したもので、ベルリン・フィルの常任指揮者であったカラヤンもその設計に参画した。

ベルリンについて語るとき避けて通れないのが、東西分断の歴史である。ここでは詳細は省くが、今回のツアーでもその歴史の一端に触れた。
米ソ冷戦の象徴的遺跡として壁の一部が保存されている。

壁が撤去された跡の路面に残された刻銘。

チェックポイント・チャーリーは、アメリカ統治地区とソ連統治地区との境界上にあった検問所。現在その跡地には2000年に復元された小屋と標識が建ち、小屋の外側にはアメリカ兵とソ連兵の写真が表裏で大きく掲げられている。

ベルリンのシンボルでもあるブランデンブルク門。この日は新年を祝う何かの行事が行われていた。

街で見かけたアンペルマン・ショップ。残念ながら祝日のため営業していなかったが、陳列されていた商品を窓越しに撮影した。女の子のマークは「アンペルフラウ」と呼ばれ、アンペルマンの女の子バージョンとして東西ドイツ統一後の2004年に登場した。

昼食に食べた「アイスバイン」は今回のツアー中に食した名物料理という中で、唯一許せるものだった。その後はフリータイムではあったが、祝日のため開いている店はほとんどなく、夕方のコンサートまでの時間もあまりなかったため、全員がバスでホテルに帰った。
シュターツカペレ・ベルリンはベルリン国立歌劇場に付属するオーケストラで、現在の音楽監督はダニエル・バレンボイム。現在、ベルリン国立歌劇場が改修工事のため、今夕の演奏会はシラー劇場で行われた。

曲目はベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調。29日の感動的なゲヴァントハウスの演奏会と同じ曲目であったこと、そして、あのジルヴェスター・コンサートの後、しかもホールもこれといった優れた点も見受けられず、私の中では印象の薄いコンサートだった。

余談になるが、翌日、帰国途中のベルリン・テーゲル国際空港でヴァイオリニストの五島みどりさんを見かけた。

・・・これにて、音楽三昧の旅シリーズは完結。

# by maximiechan | 2012-01-21 13:43 | 旅行 | Trackback | Comments(4)
2012年 01月 15日
ドレスデンその4~ベルリンその1(2011年12月31日)
昼食を済ませてからホテルに戻りチェックアウト。その後、ベルリンへの移動までまだ時間があったので、新市街を少し探索した。アウグストゥス橋の袂には「ドレスデンその3」で紹介したアウグスト強健王の黄金の像があった。

そこから新市街の中心部であるアルベルト広場に向かってまっすぐな並木道が伸びていて、その両脇には商店が建ち並んでいた。

アルベルト広場には夜ライトアップされる噴水もあって、ガイドブックにはそれも見所だと書いてあったが、池の水は空っぽで噴水も出ていなかった。

ところで、今回の旅行に向けて予習をしている中で、マイブームとなったものがある。それは、旧東ドイツで使われていた小さな男の子がモチーフとなっている歩行者用信号機のマーク、アンペルマンだ。東西ドイツ統一後は他の旧東ドイツの日常品同様消えゆく運命にあった。しかし、その可愛らしさに親しんでいた市民から「アンペルマンを救え」という運動が起き、政治家や役所を巻き込んだ議論をよび、最終的には機能的にも優秀だと認められ、存続が決定した。今はそのデザインを使った様々なアンペルマングッズが生まれ、すっかりドイツのシンボル的存在になっている。
その信号機にレンズを向けた。

夜はベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサート。
ベルリン・フィルは日本での人気も絶大で、1957年に初来日して以来、数多くの来日公演を行っている。私が初めて生のベルリン・フィルを聴いたのは4度目の来日公演の際で、時は1973年11月1日、場所はNHKホール、曲目はシェーンベルクの「浄夜」、ベートーヴェンの交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」だった。指揮者は言うまでもなく終身常任指揮者だったヘルベルト・フォン・カラヤン。同級生の音楽仲間3人と協力して往復はがき(公演案内のちらしに添付されていた)を何枚も出して、抽選の結果3枚の購入整理券を手に入れることができた。母親に仕事を休んで入場券を買いにいってもらったが、購入できたプログラムは2つに別れてしまい、私とT君は第2希望のその演奏会に行くことになった。一番聴きたかったのはN君が聴いた10月27日のプログラム。曲目はドヴォルザークの交響曲第8番ト長調作品88 、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と「愛の死」、同じく歌劇「タンホイザー」序曲 だった。それまでにもTBSで放映されていた「オーケストラがやってきた」の公開録画等で生のオーケストラの演奏は何回も聴いていたが、ベルリン・フィルの絹の手触りのような柔らかく艶やかな弦の響きやシュワーと細かい粒子を振り撒くような金管楽器の音に接し、やはり世界一流のオーケストラは違うなと思った。今振り返ってみるとまさにこの70年代のカラヤン/ベルリン・フィルは脂ののりきった黄金時代だったのだ。私の大好きなR・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピ-ゲルの愉快ないたずら」の演奏のマイベストは両者の73年の録音。80年代にも録音しているが、それはただかったるいだけの演奏としか聞こえてこない。その後も何度かベルリン・フィルの来日公演を聴きにいこうと思ったことはあったが、果たせぬまま約40年が経ってしまった。
さて、ホテルからバスでフィルハーモニーへ。その黄色っぽい建物が夜空の下に見えてきたときには既に心臓はドキドキ状態。しかし、バスを降りるとすぐにカメラ小僧へと変身し、冷静にアングルを決めて撮影。

そして、いよいよホールへと足を踏み入れた瞬間、再び感動のあまり身体が震えてしまった。
チケット、我々の席、席からのホールの様子。


プログラムの表紙と演奏者紹介のページ、曲の解説の一部

当夜の曲目・演奏者は以下の通り
<曲 目>
スラブ舞曲 第1番(ドヴォルザーク)
交響的舞曲 第2番(グリーグ)
ピアノ協奏曲 イ短調(グリーグ)
道化師の朝の歌(ラヴェル)
楽劇「サロメ」から「サロメの踊り」(R・シュトラウス)
バレエ組曲「火の鳥」から (ストラヴィンスキー)
ハンガリー舞曲 第1番(ブラームス)
<演 奏>
(ピアノ)エフゲニー・キーシン
(管弦楽)ベルリン・フィル
(指 揮)サイモン・ラトル
1、2曲目は響きのイメージが違うことへの戸惑いがあって何だか集中できず、演奏の印象もほとんど残っていない。しかし、3曲目のコンチェルトではピアノとの格闘とでも形容したくなるようなキーシンの凄まじい独奏とそれに負けじと白熱するオケに完全に打ちのめされた。通常ではあり得ない第1楽章が終わったところで沸き起こった拍手もその演奏の凄さを物語っているのだろう。この演奏中には響きへの違和感もぬぐい去ることができた。その後は色彩豊かな大好きな曲が続き、また、超一流の演奏家の本気モードに触れ、実に楽しく、心熱くなる時間を過ごすことができた。また、ちょっとしたお笑いとドキドキ感も味わわせてもらった。それは、コンチェルトの前にピアノの蓋(共鳴板)が開かなくなってしまったことと、ハンガリー舞曲第1番の演奏中にラトルが指揮台を踏み外すという信じられないようなハプニングが起きたことだ。
終演後のロビーの様子。

…ベルリンその2に続く。

# by maximiechan | 2012-01-15 13:05 | 旅行 | Trackback | Comments(4)


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